物語に,息吹きを。

一万坪の庭園に息づく自然に護られるように、いくつもの物語が、陣屋には集います。

丹沢を背に並ぶ館は伝統と歴史の重みのある、純和風。
戦国の世を思わせる骨太いたたずまいと雅な意匠。
部屋の窓を開け放てば花々の薫り、野鳥の声、虫の音と季節の息吹に満たされくつろぎも、趣深いものに。
また、お客様をお迎えし、お送りする陣太鼓の音も陣屋ならではのおもてなし。

1万坪の庭園

1万坪の広さを誇る庭園に、一歩足を踏み入れれば、そこはもう別天地。
ここは失われつつある日本の自然が息づいています。

桜が咲き、沢蟹がたわむれ、
蛍が舞い、鳥がさえずる。

一万坪の庭園に息づく自然に護られるように、いくつもの物語が、陣屋には集います。
草花や生きものたちを眺めてみたり、歴史を刻んだいくつもの物語に想像を巡らせてみたり。
陣屋での一日を、どうぞごゆるりとお過ごしください。

※階段の場所や部屋の場所の詳細がわかる、陣屋敷地全体図をご用意しております。

1万坪の庭園

歴史

百年以上に及ぶ、陣屋の歴史。 代々の当主が少しずつ収集してきた古美術品を 館内に展示しています。
毛利元就や宮本武蔵にゆかりのある武具をはじめ、 武田家伝来の鎖帷子や、上杉謙信の十字の槍など
鎌倉時代や戦国時代の貴重な品々を現代に伝えています。
滞在の合間に是非、ご覧になってみてはいかがでしょうか。

この陣屋の地は鎌倉幕府の時、源頼朝の側近で四天王の一人と言われた侍所別当 和田義盛公の陣地でした。 侍所別当とは、現在の警視総監に当たる役職です。 一番西の砦である義盛公の陣地は、平塚の岡崎氏 真田神社のある真田氏と義盛公の従妹達が守っていました。 そして、「いざ鎌倉」と、頼朝の号令がかかるまで、畑を耕し、山に潜む猪や鹿を取り、食し、野山を駆け巡り体を鍛えておりました。

この地に陣屋を構えたのは豊かな温泉が湧いていたことと、弓矢に使う矢竹が豊富に取れた為と思われます。

和田一族は屈強のつわもの揃いで多くの手柄をたてており、小田原の北条氏に敗れるまでこの地を治めておりました。この近くの 西光寺には、和田家の墓もあります。(義盛公のものはありません)ロビー内の展示、玉兎の盃は和田義盛公と曽我兄弟がお酒を酌み交わした盃です。 曽我氏は現在の小田原にある曽我の梅林で知られる地に住んでおりました。

「いざ鎌倉」の時、馬に乗り半日で駆けつけたと言われております。

丹沢山麓にあたる当地は沢山の湧水に恵まれており、昔から温泉が湧いておりました。 陣屋は大正7年、三井財閥の御寮(別荘)「平塚園」として始まりました。

当時、平塚 大磯には政治家の別荘が数多くあり、政治の舞台裏として活発に活動していました。その為、三井財閥が平塚の奥座敷であり、温泉の湧く(鶴巻)和田義盛公の跡地に大切なお客様を接待する為に建てたのが始まりです。小田急線が引かれる前の事です。

平塚には海軍の火蒸廠があり、海軍の将校達が馬車で来館し、大正の初めから終戦まで続きました。大正の終わり頃から旅館として営業していましたが、 「陣屋」として生まれ変わったのは、昭和になってからです。 当館にある「松風の間」は明治天皇が宿泊をするために黒田藩が大磯に建てたものを三井家が現在の場所に移築したものです。

その「松風の間」と一緒に「竹河の間」も移築されました。 当時、池の中の椎の木のまわりは馬車まわりになっており、「竹河の間」は玄関になっていた建物です。現在では大広間として改築されております。 そして、椎の木は何度も落雷を受け幹が折れたにも関わらず、現在も元気に生きています。

物語に息吹きを

陣屋の美しい自然と歴史をイラストでご紹介致します。
こちらのイラストの絵葉書も陣屋にてお買い求めいただけます。

棋士と陣屋の歴史

数々の将棋・囲碁の名勝負の舞台「松風の間」

対局のご案内

松風の間は明治天皇をお泊めする為、黒田藩主が大磯に建てものを移築したお部屋で、欄間には桐や菊が施されており、今も数々の将棋・囲碁の名勝負が行われております。
陣屋は、昭和に入ると時代を代表する将棋や囲碁の名棋士たちが王座を争う場として、知られるようになります。 今迄行われたタイトル戦は三百以上。平成二十三年の第五十二期王位戦では羽生善治氏が王位を獲得し、大山康晴十五世名人の不滅の大記録、通算八十勝に並ぶ歴史的偉業を陣屋の松風の間で達成されました。

日本将棋連盟のホームページはこちら

陣屋事件とは、昭和将棋史に残る事件で一躍将棋対局の場「陣屋」を有名にした事件でもあります。 「時は、昭和27年 木村義雄名人との対決となった第一期王将戦七番勝負第六局。対局前日の2月17日 升田八段はひとりで新宿から小田急線に乗り、鶴巻温泉駅から歩いて対局場の陣屋に向かった。 後の升田の主張によると、玄関のベルを押したが、だれも出てこない。番頭が通りかかったが、取り合わない。 大事な将棋を指すはずの旅館なのに、宴会の騒ぎが聞こえる。30分ほど待ったがだれも出てこない。 我慢が限界に達し、近くの別の旅館にあがった。「今晩はここに泊まり、あすの朝、対局場にいこう」。 いったんはそう決めたが、説得に来た理事らとのやりとりの中で怒りがぶり返し、「旅館を変えてくれんのなら、絶対に指さん」と爆発、そのまま対局を拒否し、東京に帰った。日本将棋連盟の理事会は22日、升田を1年間の出場停止処分にし、理事全員が引責辞職した。


陣屋の松風の間にて、昭和20年代に行われた九段決定戦での大山康晴名人と升田幸三九段の対局。升田先生の時代から大山先生へと移っていく、将棋の歴史の一ページ。

しかし、連盟が戦前に分裂騒ぎを起こした時の脱退組の流れをくむ棋士たちや関西の棋士たちが、世論の後押しも得て猛反発した。 問題を一任された木村名人が「升田、理事会双方が遺憾の意を表明し、升田は即日復帰、理事の辞表も受理しない」という裁定を下し、解決した。
升田は第六局を不戦敗となったが、平手番の第七局に勝ち、第一期王将となった。木村はこの後名人戦で大山康晴に破れ、引退した。

事件の背景に、何があったのか。このシリ-ズで、升田は木村に四勝一敗として、すでに勝利を手にしていたが、 当時の王将戦は七番すべてを戦う決まりだった。しかも三番勝ち越すと、一段差の実力がある場合のハンディである「半香(はんきょう)」、つまり二局に一局は左香なしで指す「差し込み」制度を採用していた。 実力名人戦が始まって以来頂点であり続けた木村名人が香を落とされると知って、新進のA級八段だった高柳敏夫名誉九段は「天皇の玉音放送を聞いた時よりショックだった」という。

「当日の朝、起きて最初に『木村名人が香を落とされて指す日だな』と思った」そうだ。升田は自伝『名人に香車を引いた男』の中で、「打倒木村」に燃えていた升田自身、大いに得意だった反面、「名人」の権威を傷つけることにどうしても抵抗感があった、と回想している。「病気を理由に棄権しようか」。升田は揺れていた。それでも親しい棋士らに励まされ対局場に赴く決心をした...」


強がりが雪に轉んで廻り見る

将棋や碁の幾多の名勝負の中でも、昭和27年の陣屋事件は今も語り草。木村義雄名人との対局に現れなかった升田幸三八段。いわく、玄関から呼んだが誰も出てこず、憤慨して帰ったとの事。 しかし実際は、お迎えの者もおりました。事件の一ヶ月後、升田氏は陣屋を訪れ、色紙(写真上)を預けてお帰りになりました。棋士の葛藤を背景に生まれたこの事件、真相はいまも多くを語られていません。陣屋では、この事件をきっかけに玄関に陣太鼓を設置。太鼓を叩いてお客様をお迎えしています。

映像でご紹介

テレビ神奈川「駅なび」でご紹介いただきました

日帰り温泉プランを堪能。秋の季節膳を堪能した後は、1万坪の庭園を巡ります。

テレビ東京「大人の極上ゆるり旅」でご紹介いただきました

秋の味覚の夕食を堪能。大人のご当地検定では、「陣屋事件」が出題。